慶三郎は変わった男だった。若い衆から人気があって年寄り達にも気に入られていた。流れ者の俺を受け入れてくれた。いつだって愛敬のある笑顔をしていた。好い男だった。女には不思議ともてなかった。


「で、どこなのそこは」
 観光マップを広げて三津屋が聞いた。
「ここ」「確かに? そんな古い建物本当に残ってるのか」
 ああ、と道尋は頷いた。
「あるのは確認してたんだ。ただ行かなかっただけで」
 とうとう来てしまった未踏の地、終わりの場所。無意識に繰り返す。そう、ただ、
「行かなかっただけで」


 一人で行くつもりだった。土曜日の早朝、特急車両に乗り込んで。券売機の前で腕を掴まれた。誰にも知らせなかったはずなのになぜか三津屋がそこに居た。
「なんで」
 睨みつけたが三津屋はうろたえる様子すら見せなかった。
「一人でどっか行っちゃいそうだったから」
 三津屋は言った。吹けば飛ぶよな頼り無げな顔をしておいて、腕の力は強かった。振り払えない。
 道尋は顔を酷くしかめた。こんなところで邪魔が入るなんて。
「離せ! 俺は行かなくちゃならないんだ」
 何のために。三津屋の目はそう言っていた。三津屋は何も言わない。ただ見つめるだけだった。それは時にとても重い。俺は自分の置かれている状況を上手く説明できないことに気付いて焦る。見つめ返すことしか出来なかった。
「どうしてもか」
 やっと三津屋が口を開いた。
「どうしてもだ。俺は、行かなくちゃならない」
 噛み締めるように、言った。
「それならおれも行く」
「なに言って」
「行くなよ、勝手に」
 そう言って道尋の手を握り締めた。まるで祈りのようだった。
 それから道尋は諦めて勝手にしろと投げやりに言った。何も言わなかったが三津屋はほっとしたようだった。黙り込んで切符を買って二人でホームに出た。五分とせずに列車は来た。
 席に座るとふ、と息をついて道尋は少し笑った。泣いているような顔だった。


 列車の規則的な振動に揺られながらぽつぽつと会話した。
 悪夢で寝るに寝られないのだと道尋は言った。確かに顔色は悪く疲れが滲み出ていた。三津屋にはそういう兆候はなかったから、俺ばっかり損な役回りだなあとうんざりしたようだった。
 焦燥に駆られている。あの夢を初めて見てから恐ろしくて仕方が無い。不安に食い潰されそうだ。なにかがひたひたと迫ってくるような、恐怖。今までこんなことは無かったのに。
 巡り会ってしまったから、なにか狂ってしまったのか。
 ある屋敷で道尋の記憶は途切れている。そこで死んだのかはわからないが何か手掛かりが有るかもしれない。わからないから怖いのだろう。いっそ洗いざらい思い出せればこの焦燥も消えるに違いない。そう思っていた。浅はかにも。

 電車に揺られて二時間、駅から歩いて三十分、目的の場所はそこに在った。
 郷土資料館。
「それは由来の古ーいお屋敷を開放中。併せて一部改築・復元して郷土の資料と歴史を解説してるんだとさ」
 道尋の解説に三津屋はなるほど、と頷いた。
「こういうのおれんちの方にもあるや。こんなに古くないけど」
 ちなみに三津屋と春花は電車通学である。
「んじゃ、とりあえず入ろうか」
「ああその前に」
「まだ何かあるのか?」
「入館料」
「…………」
 お財布が悲鳴を上げているー、と三津屋は嘆いた。

 さて入ってみれば古寺と博物館が一緒になったような場所だった。修学旅行で行った場所を思い出した。展示品は価値有るものらしいが無学な高校生に理解できるはずもなく。ただ中世のところに思い当たる節がニ、三点。建物の方は古いは古いのだろうが見覚えはまるで無かった。
「ふうん、ここ人住んでたんだ……。どう、なんかわかりそう?」
「いや全然。……ていうか人が居なかったら残ってる訳あるか。……しかし、あんなことがあった場所によく住む気になったもんだな」
 三津屋は道尋の呟きを聞き咎めた。
「なに、あんなことって何かあったのか」
「え、……俺何か言ったか」
「だってさっき『あんなことがあった場所に』って」
 道尋は口をぽかんと開けた。確かに言った、気がするが……しかし。二人して言葉が出なかった。
(あんなこと、って……)
 何だ。もしかしたらここに来たことで何か思い出したのかもしれない。道尋は辺りを見回した。
 ふと、目につくモノがあった。
「あれって」
 館内から庭への出口がある。季節の花咲くうつくしい庭園。その向こう、対照的に鬱蒼と茂った藪の中、僅かに覗く。ぼろぼろの建物だった。  何故か背筋が冷えた。目が離せない。目が離せない。ここから立ち去りたいのに、はやく、はやく!!
 肩に何かが触れた。びくりと振り返る。
「高橋どうした、って……大丈夫か? 顔色悪い」
 視線を追って三津屋は眉をひそめた。朽ちかけの家。お化け屋敷のような。どうしてあんなものがある。
 彼は道尋を休ませて館員に尋ねた。彼女は原稿を読み上げるようにすらすらと答えた。
 あの家屋はここで一番古いものなのだが痛みが激しくて人は入れない。
 それ以上のことは何も言わなかった。
「一旦出るか? ……なにかあるならあそこなんだろ」
 道尋はうなずく。顔色は青。


「どうしたもんかな」
 道尋は呟いた。窓から外を眺める。快晴の空がまぶしい。三津屋は肩をすくめた。
「さあな。とっととしないと蕎麦が伸びるぞ」
 そういう三津屋のせいろはすでに空だった。
 促されて蕎麦をずるずると流し込む。味がよくわからない。重症だよなあ、道尋は思う。
「お客さん観光ー?」
 気付けば店には道尋たちの他誰もいない。女将が暇を持て余したのか話しかけてきた。
 どう答えるべきか道尋が戸惑っていると三津屋が答えた。
「観光っていうか転校した友達のとこに遊びに来たんですー」
 さらりと嘘をつく奴だった。
 そのまま世間話に突入する二人を横目に見つつ茶をすする。聞き流しているうちに話は思わぬ方向に転がってたようで。
「建物? 資料館の隅の? あぁあそこね。そうねえ……、こういうの余所の人に言いづらいんだけだど」
 女将は声をひそめた。二人も耳をそばだてる。
「あれねぇ、『祟られ屋敷』って言われてるのよ」
「祟られ屋敷ぃ?」
「ごほっ」
 むせた。
「あら大丈夫ぅ?」
「あーこいつそういうハナシ好きなんですよ。気にしないでやってください」
 また適当なことを言いやがって。
 あらそうなの、と女将は笑う。
「昔この辺一帯で合戦があったらしいのね。それであのお屋敷にお侍がいっぱい詰めてていくさの用意をしてたんだけど、奇襲されて全滅しちゃったんですって」
 道尋は首を傾げた。
「それだけですか」
「まっさかぁ」
 女将はなぜか胸を張った。そしておどろおどろしくオチを語りだす。
「何年か経ってぼろぼろになったお屋敷を取り壊そうとしたら、いくら槌を振り下ろしてもびくともしない。斧もでも柱を切り倒せない。火を放っても。みんな困って、気味悪いから放っておいたの、そのうち勝手に崩れると思って。でもね、ちっとも壊れたりしなかった。ずーっと。今もよ、私が子供のときから、ううん、おばあちゃんが子供の時だって。ちぃっとも崩れる様子が無いの。ここらの人は赤ちゃん以外はみんな信じてる。きっと殺された侍の呪いだ、って」
 女将はどこまでも真剣な目をしていた。呪い。道尋も三津屋もごくりと唾を飲んだ。
「あのそれって」
 言い募ろうとしたところ、しかし彼女はにっこりと笑った。
「……なーんてね。よくある怪談よぉ」
 三津屋はテーブルに突っ伏した。道尋がすんでにお冷のコップを救出する。ナイスプレーと女将が笑った。
「おかみさーん、そりゃ無いですって」
 三津屋が力なく呟いた。
「あははごめんねぇ。でもあそこが物凄く古いのは本当で、この辺の人がいっさい近寄らないのも本当。子供は親に言い含められるのよ、『他はいいけどあそこだけは行っちゃダメ』って。なんでだろうねえ、慣習っていうやつかねぇ……」
 女将の声は遠くに霞む。思考に沈んでゆく。
「祟られ屋敷……」
 資料館ではなかったのか。合戦、奇襲。はじめて聞く話だが、不思議と親近感がある。血生臭い話。血生臭い夢。樋渡千一はそこに立っていたのかもしれない。


「なんかわくわくするなあ」「……肝試しじゃないんだからな」「わかってら」
 日の延びてきた頃とはいえ、七時を過ぎれば真っ暗。月明かりを当てにして歩いた。
 裏手から山道を迂回すれば人目につかずに忍び込めるだろうという三津屋の読みは当たっていた。正面にフェンスが見える。
 雑草を掻き分ける三津屋の背中に問いかけた。
「三津屋、お前親大丈夫なの」
「え、何が? ……ああ、外泊許可? 友達と泊まりで出掛けるっていったらあっさりOK。アバウトだよなあ」
「信頼されてるってことだろ」
「そうかな。お前こそどうなの?」
 三津屋が振り向いた。
「両親ともに町内会の旅行。帰ってくるのは明日の夕方、っと」
 錆びたフェンスを乗り越える。
 荒れ果てた屋敷が眼前に現れた。
「見れば見るほどお化け屋敷だ」
 三津屋が感嘆の声を上げた。さあて、と屋内に踏み込む。道尋も後を追った。辺りを見回す。真っ暗である。いきなり床が抜けるとかなんか落ちて来るとかそんなことは無い様だったのでほっとした。ほっとしただって? 道尋は自嘲した。お化けでも出ると思っているのか。そんなものは居ない。自分ですらこうしているのに。この屋敷だってただの廃屋。――ただ生き物の気配はまるで無かった。
「別に……、普通のボロ屋だよな……? ん、三津屋どうした」
 三津屋は前方で立ち尽くしている。前をじっと見つめている。
「懐中電灯、灯けてくれ」
 それだけ言った。
 言われた通りに懐中電灯のスイッチを入れる。パチッ、と高い音が鳴った。
 照らした先には黒い床、壁。まだらに白木の色が見える。直感した。
「……血?」
「だとしたら酷いぞコレ……」
 辺り一面どす黒く染まっている。『その昔』、何度か見た光景だった。だが、
「気持ち悪い……」
「無理しない方が」三津屋が道尋の肩に手を掛けた。道尋はそれを振り払う。
「ここまで来たのに引き下がれるかよ……。行くぞ」
 広い建物だった。何間か抜け(例外無く血だらけだった)、床穴まで覗いて歩く。そのうちに道尋の悪心もいくらかマシになっていた。記憶に引っかかるものも無く、軽口ばかり叩く。こうなると肝試しも同じだ。
 戸はほとんど開け放たれていた。時々開いていない戸もあり、それらは無理に開けようとすれば壊れそうだった。回り道をして部屋をまわる。
「そろそろ最後、かな。……何もわからなかったな」
「そうだな。付きあわせて悪かった」
 三津屋は目を丸くした。
「おお、お前の口からそんな殊勝な言葉が出るとは」
「俺もお前の口から殊勝なんて単語を聞くとは思わなかったよ」
「ケンカ売ってんのか」
 道尋は無視した。いったいこんなところまで何しに来たんだか。
「あーあ、俺これからどうしようか、な、……」
「ん、どうした高橋……」
 また、だ。昼と同じ、視線が一点に吸い寄せられる。開け放たれた縁側。
 今まで通りの惨状の跡、なのにどうして。
 目を凝らす。月明かりのせいか血の色も鮮やかに点々と。
「うあ」
 ガン、と鈍痛が頭を襲った。痛い。バットで思いっきり殴られたみたい。思わず頭を抱えてしゃがみ込んだ。
「おい高橋っ!しっかりしろっ」
 三津屋の声も頭に響く。痛い。それでもなんとか彼を見上げると、三津屋まで口元を押さえて前屈みになっていた。
「気持ち悪い。なんなんだよコレ」
 何でもない光景だ。この場所の異常さを除けば。多分血であろう黒い文様。朽ちた広縁。明るい月影。痛い。頭が割れそうだ。痛い。火が。
「火が……」
「たかはし?」
 ふらふらと前に進み出る。炎が見えた。ゆらりと揺れる火。熱い。痛い。わかってる、これは幻覚。頭痛で幻覚を見るなんて。
 でも本当に熱いんだ。
 燃える炎に触れる。爆ぜる火の粉。いつのまにか辺りは火の海。

焔の熱が爆発した。

「……っ」
 激痛が全身に走った。
『今夜は見張り番だから』『千一の泣き虫!』『無茶してはいけませんよ』『無事か!』『美人でも行き倒れてたか?』『おらんもかえでも』『起きろ敵襲だ!』『どうして、』『千一』『せん』

 ああ。

 広縁の端から道尋は足を踏み外した。地面に肩から落ちる。「高橋っ」

 ああ、そうだった。

 まざまざとよみがえる夕焼け色に燃える夜。あの日、あの晩、俺は――。

「おい高橋っ! って……」
 駆け下りてきて三津屋は押し黙った。道尋は笑っていた。
「ははは」ちゃんちゃら可笑しい。そりゃあ覚えてられないわけだ。
「ああそうだった、そうだったよ」
 ごめんな三津屋、だからそんな心配そうな顔するなよ。ごめん、ごめん。
「思い出した」
 本当に謝らねばならない相手はどこにもいない。

「慶三郎を殺したのは俺だった」

 見上げる空には満天の星。払暁未だ遠し。










そんな、忘却にまで変わって……!










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