「じゃあ、特に問題は無いんですね」
「ええ、頭打ったのと打ち身だけですって。お医者さんもじきに目覚めるだろうって。
 ――ありがとうね、お見舞いに来てくれて」
 三津屋はいいんですよと微笑した。
 地元の総合病院の一室である。大部屋だが他に患者はいなかった。
 窓際のベッドにひとり春花は眠っている。すうすうと静かな寝息を立てて。
 とても丸一日眠り続けたままとは思えない。
 昨日の昼休み、春花は階段から落ちた。目撃者の言によれば足を踏み外したようだったとか。
 ただの事故だ。だというのになぜか不安でしかたなかった。
 とても、怖い。でも何が。
「高橋くん、でしたっけ。あなたもありがとう。春花も喜ぶわ」
 道尋ははっとして顔を上げた。春花をじっと見つめていたことに気付き慌てて春花の母に向き直る。
「いいんです。目を覚ましてないって聞いて、その」
 春花の母は笑って、もう一度ありがとうと言った。
 三津屋と二三言交わして彼女は病室から出ていった。一旦家に帰るという。主婦には主婦の仕事がある。
「なんか、怖いな」
 三津屋が言った。道尋はびくりとした。お前もなのか。お前は何を恐れている。
「ちゃんと息してるし、悪いところも無い。なのにいつ目を覚ましてくれるかわからない。おばさん疲れているようだった。そりゃそうだよな、不安だよな。おれらなんかよりよっぽど。いくら医者がなにか言ったって、人間悪い方に考えちまうもん」
 ふと三津屋は道尋を見る。
「昨日さ、お前言ってたじゃん。死んだときのことを覚えてないって。おれもそうだよ。というかおれの覚えてることなんてたいしてないんだけどさ」
 最後の方なんてもう全然と首を振る。
「ええと……そうだなあ、小競り合いだろう、要するに」
「ああ」
 その小競り合いで一体何人命を落としただろう。今の史観からすればなんでもない戦いで。
「なんだっけ……千一が加賀家を出てって、それでおらんと彼とは敵同士になったんだよな。何でだ?」
 三津屋は首を傾げた。
「……俺の記憶の限りでは、千一が行き着いた家がどっかに従属したとかで、加賀と敵対関係になったんだよ」
「ふうん……」
 知らないなあ、と彼は呟いた。道尋も詳しいことはわからない。アルバムを開いたらページが所々抜け落ちていたような感じだ。敢えて直視しようとするとあやふやさが気持ち悪い。気持ち悪いからずっと考えないできていたのだけれど。
 道尋は溜息を吐いた。
「そうか、なんか悪かったな」
「かまわないさ。なあ、ひとつ、聞いていいか」
「なんだよ」
 三津屋は息を吸って、吐いた。
「『千一』が加賀の家を出てから『おらん』と会ったことはあるのか」
 道尋は戸惑った。気まずい、とか、後ろめたい、とかではなく、ただ単純に。――思い出せないのだ。
 だから知らないと呟いた。消え入りそうな声だった。
 そっか、と三津屋は微笑んだ。寂しそうに。
「おらんはずっと千一に会いたがってた。――おれが知ってるのはそれくらいだよ」
 何も言えずに道尋は外を見た。湿っぽい匂いがする。そろそろ梅雨だ。雨が降って全てを洗い流してくれればいいのに。不安とか焦燥とか、そんなものを。後には何か残るだろうか。
 三津屋が席を立った。ちょっとトイレ、とその姿は普段と変わり無いように見えた。本当かどうかは問題ではないなと道尋は思った。


「千一」
 いま来た道を振り返る。朝靄の中走りくる人影。千一は目を細めた。
「なんだ、来たのか」
「出て行くの」
「吉正さまに嫌われてしまったみたいだ」
 おらんは悔しそうに唇を噛む。
「兄上の阿呆が! お前はなんにも悪くないのに」
 千一はくすりと笑った。
「まあこれから悪さするかもしれねえからな」
 うそぶいて屋敷を見る。ここで育った。優しい吉正さま。調子のいい正次さま。学問好きの久吉さま。おらん。そして、正成さま。
 当主の正成さまが身罷られて、吉正さまが家督を継いだ。そして千一は加賀の屋敷を出る。
 おらんは泣きそうな顔をしていた。
「兄上はお前を妬んでるんだ。お前のほうが父上に気に入られてた。腕も立つし、家取られるかもしれないって、だから追い出したりして」
「非道いことを言うな。吉正さまがそんな人じゃないことはお前もよぉくわかっているだろう」
 千一はまた笑う。笑うしかなかった。嫌われたなんて嘘だ。吉正さまは最後まで千一を気遣っていた。
「俺みたいなみなしごを育ててくれただけでも感謝してるんだ。剣も学問も教えてくれた、生きていくには困らない。嘘じゃないぞ」
 余程のことがなければ、だが。久吉さまを思い出した。剣も学問もあったって生きられないことはある。病ばかりは仕方がないか。
 そうか、とおらんは溜息を吐いた。くるりと後ろを向く。鼻声で言った。
「あたしも家を出るかもしれない」
「なんだって……!」
 千一は思わず叫んだ。
「兄上はあたしを嫁にやりたいんだ。家を大きくしたいのね。もう候補もいくらか挙がってるようだし」
 それが嫌なわけじゃないけれど、とおらんは呟く。
「この際見た目とかはどうでもいいけど、でももしそいつが男として最低の奴だったり、……あたしより弱かったりしたらやりきれない」
 おらんは振り返った。じっと見つめられる。
「あたしの剣を認めてくれる男でなくては嫌なのよ」
 射るような視線だ。おらんらしいなと思った。そう思ったら、笑いが込み上げてきた。
 何が可笑しいの! と掴みかかってきたおらんをいなして額を弾く。
「ならどこかで会うこともあるかもな」
 怒る彼女を遮って言う。抱きしめたりは、しない。
「今まで世話になったと、俺は恨んでないって、伝えておいて」
 おらんは頷いた。暖かな家、義父上、愛しい人たち。おらんにはああ言ったけれどもう会うことはないだろうと千一は、



 道尋ははっとして目を開いた。西日が眩しい。
「夢か……」
 うたた寝していたらしい。時計を見れば三津屋が出ていってから五分と経っていなかった。
 あんな夢をみたのはあいつのせいだ。
(おらん、か)
 再会、したのだろうか。道尋にはわからないことだった。
 会いたがっていたというのなら、と思う。会いたかったのはおらんばかりではない。千一だって――。
「ん……」
 微かな声が、聞こえた。
 飛び上がりそうになった。思わず凝視する。西日差すベットの上、春花のまぶたが動いた。
「しゅ……」
 ゆるゆると開く瞳に息を呑む。ぽかんとした表情を浮かべ、彼女は言った。
「……千一?」
 頭がまっしろになりそうだった。まさか、記憶が。
「千一ぃ、頼むよ。あんまりかっか、しないで……。みんなお前の、こと好きだか、ら、からかうんだって」
 予想外の妙な台詞に道尋はうろたえた。よくよく見れば春花の目は道尋を見ているようでいて、その実焦点は合っていなかった。
「おい……、聞いてるのか……」
 なおも春花は言紡ぐ。か細い声。とぎれとぎれ。ああこれは、
 寝言だ。
 寝ぼけているんだ。(そうとでも思わなければ、俺は)
「……聞いてる、なら……答えろ」
 聞いてるよ、聞いている。でも、
 寝言には答えるなかれ。その禁は知っている。
 彼女の中の『彼』を呼び起こすかもしれないとわかっているのなら、なおさら。
 でも、俺には、とても。
「け……」
 応えようとしたときだった。まぶたが降りがくりと頭が枕に沈む。
 また、眠ってしまった。
 思わず道尋は春花の体に手を掛けた。
「おい、起きろ! 起きて、……いくな!!」
 必死で揺り起こす。ぎしぎし、ぎしぎし。ベッドが悲鳴を上げた。
 誰か居たなら止めていただろう。道尋の様子は鬼気迫るようだった。
 う、とかすれた声がした。道尋は我に帰った。慌てて顔を覗きこむ。
 再び目が開く。ひゅ、という息の音。薄く唇があいた。
「……ん、ミチヒロくん……?」
「しゅんか」
 がたん、と椅子に腰を下ろした。
 愕然とした。
 いってしまった。遅かった。もっと早く応えていれば彼は、いやいいのだこれで春花をおもうなら彼女を苦しめるくらいならでも、俺は、俺は――
「変な夢、みたの」
 春花がぼそりと呟いた。
「男の人がいて、私はその人に一生懸命話し掛けてるの。でもその男の人はちっとも知らない人で、しかも振り向いてくれないの。なんだったんだろう」
 のっぺらぼうだったりして、と春花はくすりとわらった。
「忘れちゃえよ」
「え」
 春花は首を反らして道尋を見る。道尋は俯いていた。声が少し震えていた。
「そんな変な夢さっさと忘れちゃえよ」
「うん……」
 切羽詰ったような声に押されてかおずおずと彼女は頷いた。かすれた声が空気を震わせる。

「ねえミチヒロくん、泣いてるの」


 なにが怖かったのかわかった。俺は前世が怖い。










もう一度会いたかった
(もう二度と会いたくなかった)










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