次の時間は音楽だった。音楽室に行かなきゃならないのに、迷った。
 考え事しながら歩くもんじゃない。思わず溜め息が出た。こんなことなら誰かに付いて行くんだった。
 こういうことがあると、春花と同じクラスだったらよかったのになと思う。けれどそうしたらあいつも一緒なわけだ。それはとても気詰まりだろう。
 あいつとはいくらか話した。取っ付きやすい相手ではない。正直苦手なタイプだ。
 前世で関係のあった人というのはなんとなく、つまり直感でわかる。虫の知らせってやつだろうか。とはいっても高校入るまでそんな経験なかったのでこないだの昼休みが初体験です。あいつもそうらしい。なんて偶然だ。嫌がらせとしか思えない。
 一旦教室に戻ろう。まだ誰か残っているかもしれない。
 踵を返す、と、そこに件の彼がいた。
 噂をすれば――影。
「たかはし」
 声に出してから、しまった、と思った。そんな大きな声じゃなかったのに高橋は気付いてこっちを向いた。まあいい、これも何かの巡り合わせだろう。そう自らに言い聞かせて駆け寄った。
「何か用か」
 愛想が無い、というよりは剣呑な様子で問われた。こいつは目つきが悪いのだ。目が悪いとそういう風になるらしい。眼鏡越しだってぇのにちっとも緩和されてない。手早く自分が今置かれている状況を説明する。と、彼の持ち物が目に付いた。絵の具セット。
「なんだ、お前美術なの」
 しばらく黙ったあと、ぼそりと言った。
「俺は音楽はとても選べたもんじゃないんだよ」
 その表情を見てある事を思い出した。
 子供の頃の嫌な思い出がある。小学校だかそれ以前だか、とにかくちっさいときだ。
 絵を描いた。『楽しかった思い出』とかそんなテーマだ。「どんなことでもいいから描いてごらん」という先生の教えに従って、おれの描いた絵は竹刀持って手合わせしている絵だった。いま思えばそれは「楽しい」とは少し違っているけれど、自分の名前もろくに書けないガキにそんなこと分かるもんか。話がそれた。とにかくおれはそういう絵を描いた。そして、怒られた。嘘吐くんじゃありませんって。
 つたない言葉を駆使して懸命に説明したけれど聞き入れてはもらえなかった。おれは途方に暮れた。その頃は「前世」も「いま」もごっちゃで等しく自分の思い出だったんだ。なのに怒られるんじゃ訳がわからないじゃないか。それより先、おれは絵を描くのが嫌になった。つまらない話である。
 もしかしたら、こいつもそういう思いをしたことがあるのかもしれない、そう思った。
 でも、そんなことは言う必要の無いことだ。だから、
「なんだ、音痴だったのか」と茶化すように言った。
「否定はしないよ」と高橋は不機嫌そうに答えた。
「ああ、ていうか春花は? 一緒じゃないのか」
 彼は間違い無く不機嫌になった。
「初井は音楽だよお前と一緒」
 一息に吐き捨てられた。真っ先に覚えたのは驚き。
 こいつらのクラスと合同だったとは……。
「あ、そーなの。本当? 全然知らなかったぁ…」
 そして、相当浮き足立っていた。そして、おれはそのために、言うべきでないことを、言った。
「でも千一、お前歌上手かったのにな。わからないもんだな……っ」
 息が、止まった。のどが、絵筆が、喉に、喉が…………殺気。
「っ…」
 す、と息を吸って彼は言った。
「いいか、三津屋。これから嫌でも生活をともにするわけだからな、ひとつ言わせてもらう」
 腹に響くような、低い低い声で、
「その名で、呼ぶな……っ」
 唸るように、言った。
 迸る殺気。
 高橋は一瞬にして絵筆を取りそのままおれの喉笛に突きつけたのだった。
 あまりの気迫に空間はじりじりと焼け付いて、焦げるような匂いすら。錯覚か。
 そうしていたのは僅か数十秒。
 視線が交わったのはただ一瞬。
 その一瞬の後、す、と高橋は手を離し、膠着を払うように筆を振るった。
 しばらくは何事も無かったように絵筆を弄んでいたが、固まっているおれを見、目が合うと急にうろたえた。気まずい沈黙が場を支配する。
 彼はこちらに向き直ると、「おまえだって、『おらん』って呼ばれたら嫌だろう」と、バツが悪そうに言った。
 おれはぎこちなく頷いて、高橋は音楽室までの道のりをおれに伝え、そして廊下を曲がって行った。
「はぁっ……!!」
 高橋がいなくなったとみるや、おれは一気に脱力した。
「おれは馬鹿か……」
 わかっていたことではある。軽々しく『むかしのはなし』なんてしちゃならない、なんてことは。
 なのに。
(あれは生活していくのにまるで役に立たない記憶だ意味が無い刀の振り方戦略郷愁叶わない思い笑顔血まみれの嫌な記憶だ嫌な記憶だ何度自分を呪ったことだろう)
 それになにより、
 人間関係においてはすっきりさっぱりまるで役立たないこと請け合いなのだ。
 ていうかぶち壊す方面にお役立ち。
 数十秒前を思い出す。あのときの高橋と一度だけ目が合った。
 恐ろしかった。
 あの目。
 まっくらな目をしていた。底無し沼を思い出す。ねっとりとした闇。明けなかった夜。暗くて冥くて、人生の闇がりを全部溶かし込んだような、目。
 あんな目で見られたら、それだけで死んでしまうとおもった。
「…………っ!」
 ぞくり、と。
 今更背筋が震えた。
 あんなの、今までの人生で、それこそ『むかし』を足したって見たこともなかった。
「……ちっとも変わってねえじゃないか」
 身のこなしとか音痴になった視力が落ちた、それがなんだ。なんにも変わってなんかない。
 殺気ばかりは露だに変わらじ。
 ただ、あんな目をするような奴ではなかったけれど。
 次の時間まであとどのくらいだろう。始まる前には辿り着きたかったけれどどうやら今日は遅刻のようだ。音楽は初授業なのに。ああ、はやくチャイム鳴らないかな。それか誰か来て、頼むから。おれをびっくりさせて下さい。
 どうしようもなくて天井を見上げる。
 立ったまま腰が抜けたなんて笑い話にもなりゃしない。









その名で呼ぶな










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