くもりなく下界を照らす太陽の下、老人は眉根を寄せた。手に持っていた盆で日差しを遮り、緑の山を見つめる。 「気のせいならいいんだが……」 ******
蝉の声がかしましくグラスの氷を揺らす。大川柊也と井野葵は細い体を突き合わせ、顔をしかめた。 「……どうするよ」 「どうするもなにも」 あの日から――、蓮娘が現れてから三日経った。晴れの日が来て曇りの日が来て昨日は雨。彼女は一度も姿を見せない。 「どこ行ったんだろ。やっぱその池かなあ」 柊也は苦い顔をした。先だって祖父の注いだ麦茶をぺろりとなめる。 「別にいいじゃんさ、放っとこうよ」 葵はむっとして口をとがらせた。 「言い出したの柊也くんじゃない」 言い放ってぱっと立ち上がる。柊也は面食らってそれを見上げた。 「やっぱ行こうよ」 「や、その」 言いよどむ柊也に葵ははにかんで見せた。 「昨日ならともかく、今日は晴れなんだから」 ぬかるんだ道を踏みしめながら葵は溜息をついた。目の前の少年は気付かない。 昨日っから蓮娘の話ばかり。見かねて様子を見に行くかと言えば首を横に振る。葵でなくてもうんざりする。せめて飛び出していくのなら――、そう考えてかぶりを振った。葵だって、同じ気持ちではあるのだし。汗を拭って葵は呟いた。 「昨日、雨凄かったよね」 「あ……、そうだな。びっくりした」 嵐、といっていい天気だった。台風でもなんでもなかったのだけれど。雨は半日も続かなかったが、止んだ後には柊也が来た。それまで何も言わなかったのに、あの日からはじめて蓮娘のことを口にした。 ――あいつ、どこ行ったんだろうな。 あの小さな、態度のやたらでかい女の子は無事だろうか。まさか流されちゃいないだろうか。口にはしなかったが、まあそういうことなんだろう。 葵は苦笑した。いくら心中とはいえ言い過ぎか。わからないように先行く背中に手を合わせた。すると。 「えぇ……」 柊也が突然立ち止まる。葵はびくっと足を止めた。 「え、どうしたの」 振り返った柊也は途方にくれた顔をしていた。覗き込んで呆然とする。その背中越しに見えるのは先程通り過ぎたはずの柊也の家だった。 「嘘だろ……」 まっすぐ進んだはずなのに、いつのまにかUターン。そんなことって。 「柊也くん、どうしよう」 柊也は頭を掻いた。 「どうするったって、一体なんで」 おずおずと葵は口を開いた。 「……蓮娘じゃない?」 「あいつか……!」 人の気も知らないで! 吐き捨てて回れ右。葵は慌てて後を追う。 「柊也くん!」 「このまま黙って引き下がれるか!」 「待ってよ……うわっ!」 泥濘に足を滑らせて、葵は体勢を崩す。なんとか堪えて転ばずにはすむが――。 「あれ、柊也く、ん……?」 ゆるい勾配をもつ山道を駆け上がる。地面のぬめりに足を取られよろけて立ち止まる。 「あっぶねえ……、おい葵! ……葵?」 首を四方へ向ける。林の中、林道の向こう、どこを見ても人影のひとつも見つからない。 「葵! どこだよ!」 何度呼んでも返答はない。声は山に吸い込まれていく。蝉の声が掻き消していく。 あいつどっかで転んでんじゃないだろな。葵は汗を拭きつつ嘆息した。タオルを肩に掛けなおす。 「ん?」 ぶら下げたタオルに何かが付いていた。薄い紫色。つまんで光に透かしてみる。 「はなびらだ」 手を振って捨てる。葵のもとまで戻ろうと、振り返って歩き出す。すると一吹きゆるい風。 ざああああああっと木の葉が擦れて、また、紫の片が。思わず掴む。 「……っ」 静電気のようなわずかな痺れが指先を走った。 「あいつか……?」 風の来たほうへ歩を進めた。そこはやはりあの池への道で。知らず急ぎ足になる。けれど急く気持ちとは裏腹に距離はなかなか縮まない。 (なんだよコレ!) 空気が重い。ねっとりとした水飴の中を歩いているみたいだ。ふざけんな! 叫ぼうとしても声は出ず、焦燥だけが募る。じりじりと燃える大気の中、めいいっぱい手を伸ばして目の前の茂みを掻き分けた。 瞬間、光が湧いた。 急に空気が軽くなり、勢い余って前に転がる。思わず閉じた目を開けば、飛び込んできたのは紫に染まった地面。手で掻き揚げればそれは花びら。ひらひらと積もってゆく。雪のように。 真上を見上げればまた紫。四方八方にうねる梢が空まで染めていた。 季節外れの藤の花が爛漫と咲いていた。 「嘘だろ……」 「それはこちらの台詞ですよ」 柔らかな声が響いた。はっと前を見ると、男が一人、大樹の下に佇んでいた。 色素の薄い、若い男だった。背の中ほどまである髪を低い位置で結わえ、手にした扇で口元を隠していた。整った顔立ちよりも目を引くのはその異装。彼がまとうのは藤色の狩衣だった。 「あんただれ」 柊也は問うた。すると男は目を見開いた。 「貴方……、見えてるのか」 「何言ってるんだ」 男は目をしばたかせて、それから微笑んだ。しかし笑顔はすぐに溶け、ちらりと梢を見上げて溜息を吐く。 「ま、花には罪もありませぬが」 ぱちんと扇を閉じる。絵巻物から抜け出してきたかのような所作だった。かがみこんで足元に転がる石柱を撫でる。 「ちょっと」 聞いてるの、と一歩踏み出した。そのとき。 「柊也くん置いてくなんて酷いよ!」 「葵!?」 茂みの中から葵が飛び出してきた。 「探したんだからね! いきなりいなくなるから……、あれ?」 葵は勢いよく周囲を見回した。 「嘘……、咲かず藤が、咲いてる」 「ああ、これがそうだったんだ。それよりさ……」 葵はきゅっと顔を歪めた。 「蓮娘は?」 「え、いや」 葵は身を乗り出した。 「これ蓮娘のせいなんじゃないの」 「いや蓮娘っていうかコイツだろ」 柊也は藤の根元を指差した。男は目をしばたかせた。柊也の指し示す先を見て、葵はきょとんとした。 「……何言ってるの柊也くん」 「はぁ? 何って」 「コイツ……って、誰もいないじゃん」 ぎこちなく柊也は首を回した。目の合った葵は怪訝な表情を隠さなかった。黙り込んで見つめ合い、筋が違えそうな勢いで首を戻した。 満開の藤の木の下、確かに狩衣姿の男はいる。なのに。 「いるだろ! 変な着物のヤツが!」 「ちょっと、柊也くん!?」 大丈夫か、というふうに葵は柊也の服の裾を掴んだ。かっとなってその手を振り払う。 「触るなよ!」 びくっと葵は身を竦ませた。傷ついたような視線が柊也を刺す。 「あ……、ごめ」 ぱちん、と高い音が響いた。はっとして振り返る。男は相変わらず大樹のもとに佇んでいた。 「喧嘩はやめておきなさい」 閉じた扇をもてあそびながら、男は一歩づつ近付いてきた。 「君が入ってきたから綻んでしまったのだろうね。見上げたものだ。それによくわかったねえ、狂い咲きが私のせいだって。蓮娘というのはあの子のことかな……」 呟きながら男は微笑む。柊也は思わず身構えた。 「あんた……」 「柊也くん……?」 ふわりふわりと音も立てずに、一切の跡も残さずに男は歩む。その足取りが徐々に重くなる。花びらが舞い、土の上に薄く跡が付いた。一歩、また一歩、鳴らなかった足音がその時初めて、鳴った。 「……っ!」 ざくり、と地面が踏みしめられた瞬間、ぞっとするような冷気が辺りを支配した。思わず身を縮こませるが、あっという間に冷気は消えた。残ったのはただ人ひとり分の存在感――。 「うわあぁぁあっ!」 隣の葵が突然座り込んだ。目の前を食い入るように見つめている。 「ふうん。こういうことができるわけか」 男はためつすがめつ自身の体を見ると柊也を見た。 「どうですか?」 「どうって……何が」 男は口の端を吊り上げる。そっと身をかがめ、柊也に耳打った。ひんやりとした長い指が首に触れる。花の匂いがふわりと掠めた。 「ちゃんと生きてるみたいに見えますかしらん」 「……っ!」 思わず突き飛ばして後退った。酷いな、と彼は口元を隠したまま微笑った。 「柊也くん……」 青い顔で葵は呟いた。 「あの人のこと、ずっと見えてたの……?」 柊也は愕然として葵を見つめた。それでは、この男は、 「あんたいったい……」 「何者じゃ」 ふわりとあわい香が舞った。薄紅色の衣の小さな子供。柊也たちと男の間に割り込んで団扇を真っ直ぐ突きつけた。 「蓮娘!」 男はさも楽しげに目を丸くした。見据えたままに蓮娘は続ける。 「大した力を持っておるようじゃが……、人にはあらめ、化生にもあらめ、さては幽鬼の類か」 男は目を細めた。 「私を起こしたのはあなたですね」 にわかに気色ばんで、蓮娘は目線だけ男の後ろにやった。藤の根元に転がる石柱。 「あれか……!」 「然なり」 男はふふ、と笑った。 「お退がりなさいお嬢さん。私は何もいたしませんよ」 葵がおずおずと口を開いた。 「起こしたってどういう……」 「黙りゃ!」 蓮娘は眼光を鋭くした。 「名を名乗れ」 男は困ったような顔をして、唇を押さえてちらりと梢を見た。 「そうですねえ……。藤宮、とでもお呼び下さい」 そして次はそちらの番と言うように手を差し伸べる。蓮娘は反駁した。 「フジノミヤだ? 偽名を名乗れとは言うておらぬ」 「これはこれで歴とした名なのですが」 男は笑顔で言い放った。蓮娘は舌打ちをした。構えは解かない。 「わらわは蓮娘。仙道じゃ」 「ああ……なるほど」 くすりと微笑む。 「蓮娘、ね」 蓮娘が居心地悪げに身じろぎすると藤宮はしゃがみこんで目線を同じくした。 「それでは蓮娘、それに『柊也くん』と『葵』でしたっけ? 以後よろしゅう」 蓮娘は眉根を寄せた。 「……は?」 思わず開いた口も塞がらぬ間に藤宮は朗々と続けた。 「なあに、何をいたすつもりもありません。しばしの間ここに留まらせてくれらばよいのです」 何せ行くところもございませんし、と大きく溜息をつくと藤宮は立ち上がった。 「それではよろしゅうお願いいたします、御三方」 呆気に取られる三人の眼前で、舞い散る藤の花を背景に藤宮はたいそう素晴らしく笑んだ。 |