そう遠くない『いつか』をずっと待っている。 ******
本を閉じた瞬間に部屋のドアが開いた。井野葵は大きな目をさらに開いて口も開けた。 「どうしたの柊也く」 「葵っ」 柊也は葵に飛びかかった。が、足元の本につまづいて転ぶ。二階の床板が派手に鳴った。 「い……ってえええ」 「柊也くん! ……大丈夫?」 柊也は身を起こし、泥のついた頬を強張らせた。 「大丈夫だけど、今日はダメだっ!」 「うわ、あのごめんねボク」 床に散乱する本を見て葵は身を縮こまらせた。柊也は首を振った。 「いいよ、足元見てなかったこっちのせいだ……。にしてもさあ」 赤くなった膝を見て溜息をつく。ツイてない。 「あの、さ……、どうしたの」 レンズの大きな眼鏡を掛け直して葵は問うた。柊也はさっと顔を引きつらせた。 「へ、変なのが」 「へんなの?」 柊也は大きく首を縦に振った。 「なんかじいちゃんちの後ろの山の! 池の!」 「え、池?」 怪訝な顔で話の腰を折る。柊也は舌打ちをした。 「えーとあの蓮のいっぱいあるとこ、知らない?」 「あ、咲かず藤のところだよね」 納得した様子で手を打った。今度は柊也が疑問符を飛ばす番だった。 「なにそれ」 「知らないの? 多分その池だと思うんだけど、近くに大きい藤の木があるのね。葉っぱもつけるし枯れてはいないんだけど、ずうっと花だけ咲かないんだって。だから咲かず藤」 「知らなかった。こっちきたの幼稚園ぶりだしさ」 そっか、と葵はうなずいた。 「それで、なんの話だっけ」 柊也は血相を変えて床を叩いた。 「あああお前が変な事言うから!」 「ご、ごめん」 「だから、その池の中から、変な女が!」 「変な女ぁ?」 「誰が」 「誰がって! ……葵?」 葵はぽかんと口を開けて柊也の後方を見ていた。勢い柊也も振り返る。 ドアの前には一人の少女が立っていた。 「……っ!」 がさがさと後ずさる柊也に一瞥くれて、蓮娘は鼻を鳴らした。 「変な女とはよく言うてくれたものじゃ」 葵に目をとめて口を開く。 「また童じゃ」 「ワッパって……、同い年くらいに見えるんだけど」 反駁したのは葵だった。丸団扇を口元に掲げ、蓮娘は言う。 「ほう、十かそこらの童がよく言うのう。ぬしらの年に十掛けてもわらわの生きてきた歳月には及ばぬわ」 「そっ、それ百歳以上ってこと!?」 「……ってだからなんなんだよお前は!」 蓮娘は肩を落とした。 「ぬしには言ったではないか。わらわは崑崙の仙女じゃ……」 「仙女!?」 葵は勢いよく立ち上がった。ぎょっとして柊也が見上げると、葵は目をきらきらと輝かせていた。蓮娘も知らず一歩後ずさる。 「仙女って本当!?」 「ま、まあ」 「凄い! 本当にいるんだ! あのさあのさ……」 「ええい! 柊也っ、わらわはぬしに用があるのじゃ!」 蓮娘は宙に飛び上がった。柊也の後ろに回り込む。柊也は思わず立ち上がった。 「な、んだよ!」 蓮娘はえらそうに腰に手を当てた。 「随分長い事封じられていたようでの、力が戻りきっておらぬ。しばらく山の奥で休みたいのじゃ。結界を張る手伝いをしてくりゃれ」 「はぁっ!? なんでぼくがそんなこと」 蓮娘は意外そうな顔をした。 「できぬか」 「あったりまえだろ! 結界とかなんとかぼくにできるわけないじゃん」 柊也にしては当然のことを言ったつもりだったが、蓮娘はあからさまに不満気だった。 「……なんじゃ。ぬしならできると思うたのに」 何言って。そう柊也が口にする前に葵が言った。 「ねえ、崑崙って中国だよね。なんでこんなところにいるの?」 「それは……」 「中国ぅ?」 葵は大きな目をしばたかせた。 「うん、はじっこの方にあるんだよ。崑崙山脈って言って。大体仙人って言ったら中国でしょう」 柊也はああ、と頷いた。蓮娘を見遣る。 「言われてみればそうだよな。なんでだよ?」 蓮娘は息を詰めた。 「それは……」 口篭るものの子供二人の視線に晒されて、蓮娘は観念したようだった。 「師匠がの……」 「師匠?」 蓮娘はちらりと上を見た。 「そう、これがまた厄介な爺での。色々あって……、いい加減腹に据えかねて出てきてしもうた」 袷を細い指でくつろげて、ふう、と息を吐いた。 「ここに着いたのはたまたま。それだけじゃ」 「ああそう……、帰らないの」 柊也が尋ねると蓮娘はけだるげに視線をやった。 「封じられていたといっても歳月の積もりくらいはわかる。もうあれから五百年は経っておるのじゃ。今更どの面引っ提げて帰れと」 「ごひゃ……っ」 絶句する二人に、大きく息をついて蓮娘は目を袖でこすった。 「五百年ごときで驚くこともなかろうに……」 ふああと大あくび。再度目をこすって瞬きする。 「……疲れた、眠い」 「は」 口を開けたままの二人に背を向けてゆっくりと窓を開いた。 「もう寝る。ではな」 振り返ることもなく桟に足掛けて飛び降りる。我に返った柊也が窓に駆け寄って身を乗り出したときには蓮娘は跡形もなく消え去っていた。 「なんなんだよアレは……」 へなへなとその場に座り込むと葵と目が合った。困った顔で笑う。 「……麦茶飲む?」 「飲む」 ****** 夕焼けにはまだ遠いが、正午ほどの力強さもなく、太陽は空をじりじり滑る。 蓮娘は逃げるように木立の中に入った。長い間眠り続けた池まであと少し。結界もなしに熟睡するのは心もとないが、正直今は術を使える状態ではない。せめて池まで行っておかなくては。 「まったく……、不甲斐なくて泣けてくるわ」 重いまぶたをこじ開けて前を睨む。もうすぐだ。 「……っ!」 つま先を何かにとられて姿勢を崩す。立て直そうと振った手が冷たく滑らかな感触を得た。もつれ込んで地面に倒れ込む。どすんと重たい音。柔らかな土に迎えられて四肢の力が抜ける。まぶたがゆっくりと降りて―― 「だめじゃ……」 蓮娘は土を掻いた。ここではだめだ。顔の汚れも払い落とさず大木に縋って立ち上がる。 (藤の木……) 感謝を胸中で呟き蓮娘は再び歩き出した。背後に倒れる塚石には目もくれず。 |