メランコリィ






 鮮烈な青を照り返す水面を前に蓮娘は立ち尽くした。眩しさに歯噛みして振り返ると木陰に藤宮。蝉時雨を背負ってなお涼しげ。
「暑い」
 藤宮は黙ったまま小さな子供を見つめた。蓮娘は不機嫌そうに鼻を鳴らした。
「何故未だここにおる。何処となりとも行けばよいものを」
「あなたこそ」
 そう呟いて少し笑う。
「あなたには帰る場所もあるでしょうに」
 ふん、と蓮娘はそっぽを向いた。汗の気配も感じさせぬ目の前に男に感じるのは苛立ちだ。そして、それに。
「……藤宮」
 蓮娘はきっと藤宮を睨んだ。
「ぬしは何者じゃ」
「何者、とは」
 穏やかに聞き返す。蓮娘は一歩踏み出した。
「霊眼を持たぬものに姿を見せること自体は、まあ何のこともなかろうて」
 さらに一歩、また一歩。蓮娘は藤宮の木陰に距離を詰める。
「じゃがのう……、それは違う」
「それ?」
 貼り付けたような笑み。それを見上げて蓮娘は袖を掴む。首を傾げた藤宮だが、蓮娘の手の内にあるものを見て瞬間表情を強張らせた。
「れ……っ!」
 燃える太陽を反射してきらきらと輝く刃が藤宮の手の甲を掠めた。一歩下がって藤宮は傷を押さえた。わずかに肉を裂くだけのかすり傷。呆れたような顔で藤宮は溜息をついた。
「いきなり何を……」
 藤宮は言葉に詰まった。蓮娘は震えていた。押さえた声で言い募る。
「ぬし、その傷見てみや」
 言われて手を除け傷を見た。彼は目を丸くした。
「これはまた……」
 藤宮の傷からはわずかに赤い血が漏れ出していた。蓮娘は揺れる瞳でそれを見つめる。
「血肉を持って、血肉を持ってただの霊とは言うまいな!」
 藤宮はじっと傷を見た。それから蓮娘を見遣る。少女はぎゅっとこぶしを握り締め、何かに耐えるようにじっと立っていた。
「なんとか言ったらどうじゃ!」
「怖いくせに」
 藤宮は呟いた。
「な……!」
「怖いくせによくやりますよ。大したものだ。……ですけど過ぎた勇気はただの命取りになることもある。以後気を付けなさいな」
 ふふふ、と藤宮は笑った。蓮娘は顔を赤くして詰め寄った。
「貴様……っ!」
「それにしても驚いた」
 藤宮は半身になって蓮娘を避けた。つんのめる蓮娘を無視して傷口をなぞった。
「妙な感じはしていたのですが、まさか血まで通っていたとは。これは食事もできるかな。……あ、治った」
 藤宮は蓮娘に手の甲を差し出した。そこには最早傷跡すらなかった。唖然とする蓮娘に藤宮は柔らかな笑みを向けた。
「答えは『私にもわかりません』です。葵くんにも見えるようにと気を強めたらこのザマだ。……あまり良くない死に方をしたものですから、そのせいかもしれませんね」
 そのときだけ彼の微笑みは陰を帯びたように見えた。
「私はただの霊ですよ」
 二人の間に沈黙が流れた。蝉の音だけが空気を揺らす。蓮娘は視線を逸らした。寂しげな色を上らせた藤宮にそっと背を向ける。
「私はね……」
「まあ、ぬしが何者かなどわらわには大事でないな。害を加える気がないのならそれでよい」
 藤宮は目を丸くする。一瞬置いて、小さく吹きだした。
「大事でない、ね。それはそうでしょう。私などより柊也くん達のほうが大事でしょうが」
「何をっ!」
 慌てて振り返った蓮娘に藤宮はくつくつ笑った。
「若いあなたにはわからないだろうが守るものがあるのは幸せなことですよ」
「はぁ? だいたいわらわは若くな……」
「ですから」
 嫌そうな顔をした少女の頭をぽんぽんと叩く。
「こんなところでうじうじしていないでさっさと会いに行けばいいんだ」
「な、なんで」
 藤宮はにやりと笑う。
「そういうところは見た目相応ですね。見てればわかる。それだけですよ」
 蓮娘は顔を覆ったが、頬の赤みは隠しきれなかった。鼻を鳴らして池岸に寄る。
「何があったか知らないが、私と初めて会った後もいきなり口論始めるし……。謝って楽になってしまいなさい」
「何故わらわが謝らねばいかんのじゃ……」
「だってそうなんでしょう?」
 楽しげに彼は言い、蓮娘は唇を噛んだ。そして叫ぶ。
「ああもう! 行けばよいのじゃろ、行けば!」
 真っ赤に染まる小さな顔に、藤宮はからから笑った。口元を押さえて目を細める。
「それで、なんと言うつもりなんですか」
 ふう、と息をついて蓮娘は藤宮に向き直った。にこりと笑う。本日初めての笑顔だった。
「友達になってくれないか!」
 藤宮は目を見張った。小さな雲を呼び、飛び乗った少女はそれに気付かない。
「ではまたな!」
 飛び去る蓮娘をぼうっと眺めて藤宮は目を閉じた。
「まいったな……」
 眼裏に踊る影に舌打ちをした。

『友達になってくれないか――』

 どちらが先に言ったのかも覚えていない。けれどもおそらく自分だろう。
 ――ならば、なお酷い。
 一振りすると扇子が小刀に変化した。それを手の甲に突き立てる。生きた人のそれよりは少ない量の赤い雫が大地を濡らした。
「ばかだなあ」
 漏れ出づるのは苦痛の呻きではなく。
 にじむ痛みに空虚に笑う。湧き立つ陽炎が世界を揺らす。愚かな自分を責め立てる。先に手を放したのはこちらなのだ。




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