「暇だ……」 閉め切った窓をぶち抜けて響くうるさいくらいの蝉の声。ぼくはテレビを消して寝転んだ。 困った、やることがない。 夏休みの宿題も今日の分はやり終えたし、プールだって一人じゃ行けないし、一緒に遊ぶ友達もいない。いやいるけど。 畳の上をごろごろと転がった。なんて退屈な夏だろう。いつもだったら毎日が楽しくてしょうがないのに! まあそれこそしょうがないんだけど。ぼくは帽子だけ持って玄関を出た。 「柊也、出かけんのか」 納屋にいた祖父に声をかけられた。 「ちょっとー」 祖父は笑った。 「暗くなる前に帰っておいで」「うん」 暗くなるまで暇つぶしができるとは思わないけど。どうしよっかな、どこ行こう。葵んとこ行こうかな。漫画でもゲームでもあいつはたくさん持っている。ああでもなぁ。 ちょっと迷ってぼくは集落への道ではなく、山への道を選んだ。 森戸町の塚辺集落はたいそうな山の中にある。市街地へは車で四十分、二十戸くらいあるらしいけど、どこもお年寄りばっかで若い人はいない。お盆の頃ならともかく、八月にもならないこの時期じゃ子供なんていないのだ。ただ今年は例外で、ぼくと他にも一人いる。ぼくの親は自営業なのだが、この不景気の中なぜか異様に忙しく、子供にかまってられないということで、ぼくは祖父の家に預けられた。よく聞いてないのだが、もう一人――葵もそんな感じらしい。 ぼくは小道を一人で歩く。山っていってもこの辺はなだらかで歩き回るには悪くない。葵と違って野山が珍しいわけではないが、家の中にいるよりはマシだ。 「えっと、しばらく行ったとこに池があるんだっけ」 祖父の話を思い出しながら辺りを見回す。あ、あった。道を外れた少し先てらてらかがやく水面。 雑草を踏み分け近づいて、ぼくは肩を落とした。 「これじゃ、泳げないや」 池にはいくつもの蓮根……もとい大輪の蓮の花が静かに浮かんでいた。薄めの紅色が暗い水によく映えている。たしかに蓮があるとは聞いてたけどここまでだとは。 池を眺めて、ふと気付いた。池の中ほどに、どの花よりも大きく、そして他の花と違って真っ白な蓮があった。そのうえなんだかちらちらと、黒? ぼくは小さな桟橋を歩き白蓮に出来るだけ近づいた。しゃがんで覗き込む。あーあ。自然と声が漏れた。 花びらを支える細い茎に真っ黒な糸が絡み付いていた。茎や葉を縛り付けるようにぐるぐると糸は何重にも巻きついている。あーあ、なんてこと。ぼくの頭によぎったのはいつかテレビで見た、針金が脚に絡みついた海鳥とか、犬とかで。大きな葉をゆっくり引っ張って花を近くに寄せる。絡まった黒糸を手探りでかきわける。なんとかほどけないだろうか。目に入りそうになった汗をぬぐって、ぼくは蓮をにらんだ。はさみ持ってきたほうがいいかも。そう思ったけれど立ち去りづらくてまた手を伸ばした。糸は複雑に絡まっていてとてもほどけそうにない。 やっぱはさみ。そう立ち上がろうとした瞬間だった。 「いっ……」 手を放した途端に跳ね上がった蓮の葉がぼくの指を切った。 「あーもう」 思いのほか深く切ってしまったらしく、指からたらりと血が落ちた。水面に一滴。痛む指を押さえてぼくは溜息をついた。 一旦戻ろう。ぼくは池に背を向けた。はさみ持ってくるついでに虫取り網でも持ってくりゃいっか――。 「……あれ」 ぼくは気付いた。音が、無かった。 さっきまで喧しく鳴いていた蝉も、木の葉のこすれ合う音も、何も。ぼく以外のすべてが静まり返っていた。 何コレ、嫌だ。気持ち悪い。 突き動かされるようにぼくは走り出す。 その時だった。 池が、唸った。 犬のうめき声のような音、それが池から。ぼくは思わず振り返った。 「うそ」 池の水はぐるぐると渦巻いていた。暗い池はいまや薄紅、たくさんあった蓮の花は渦に呑まれて浮かんでは沈む。ぼくは桟橋を駆け戻った。あの蓮は、白い蓮は。 短い桟橋を一番端まで駆けてって、立ち止まる。白蓮は未だそこに在った。黒い糸の絡みついたまま、周りの騒ぎが嘘のように一分も動かず。ぞっとした。どうして気付かなかったんだろう。ここが、渦の中心だ。台風の目。流れる渦はどんどん速く、水は真っ赤に染まっていく。 白い蓮を繋ぎとめていた黒い糸が、切れた。 瞬間突風が巻き上がる。目も開けていられないような強い風。ぼくは桟橋に尻餅をついた。 ぎゅっと目を閉じて、三十秒かそこら経ったころだろうか。消えていたざわめきが戻ってきた。静かにだけど、少しずつ。ぼくはおそるおそる目を開けて、また閉じた。 あー。これはない。ナイナイ。嘘だ嘘。てゆーか夢だろ夢夢夢っ! しかし目を閉じっ放しにしてはいられない。ここで寝るわけにもいかないもの。ああせめて一瞬の幻だったなら。覚悟を決めて目を開いたらそこには、 女の子がいた。 女の子。そう女の子。ぼくと同い年くらいでちょっとかわいい。ってそれはどうでもいい。目を閉じたまままったく動かない。髪を二つおだんごにして耳にはピアス、そして着物、というか袴みたいなのを着ていた。まあそれも別にいい。問題はそこじゃない。問題は問題は。 その子が池の上をふよふよと浮いていることだった。 う……っわあ。ぼくはじりじりと後ずさった。やっぱ帰ろう。ここは見なかったことにするのが一番だって。ぼくは立ち上がろうとして、 「うわあっ」 滑った。また尻餅。桟橋が濡れていたのに気付いてなかった。ついてないよ、もう。 「ほんと、なんなんだか……」 「ん……」 ぼくのじゃない声がした。慌てて顔を上げた。眼前の少女のまぶたが震えていた。ああやばい、これは。 少女はうっすらと目を開けた。重たげなまつげが揺れている。ちいさな唇が、動いた。 「わらわを呼び起こしたのは、ぬしか」 「はいぃぃい?」 出てきたのは高い声に似合わない言葉。ついでに意味もわからない。 「あの、何言って」 「ぬしじゃな。ぬししか居らんようじゃし。名は?」 「ちょっと待ってよ。お前なんなの? 大体人に名前を聞くときはまず自分からって」 少女は眉間を寄せた。 「黙りゃい童! いいから名乗れと言うておる!」 「……っ」 怒鳴ったと同時に強風が吹いた。風がやんで、前を見ると、少女はいつのまにか長い木の柄の丸い団扇を手にしていた。蓮の花と赤い鳥の絵。いかにも不機嫌といった顔で少女は団扇を叩いた。ぼくは口を開いた。 「……大川柊也」 「ほう。柊也か」 くるりと表情を変え、少女はにぃっと口角を吊り上げた。 あ、すっごく嫌な予感。 「ふふ、ふははははは! あの爺め、ざまあみろ!」 少女は団扇をぼくに突きつけた。 「我が名は蓮娘、崑崙は玉珠峰が仙女なり。大川柊也ぁ! わらわをば崇め奉れい!!」 青い空、白い雲、輝く太陽、浮く女の子。 これがぼくの無茶苦茶ななつやすみの始まりだったのです。 |