電車のドアが開くと同時に沢山のたんぽぽの綿毛が舞い込んできた。音も無く風とおどる。西日に照らされていっそう幻想的な光景の中、静かにわらう横顔に、おれは恋心を自覚した。

「少し暑くなってきたねえ」
「もう四月も終わりだしな」
 春花は脱いだブレザーをぶんぶんと振り回した。右手には高い土手。小さな川がこの向こうに流れている。駅から続く、狭い道。ここがおれたちの通学路だった。
「今日の体育、隆とうちのクラス試合してたよね、サッカー」
 唐突に春花が聞いてきた。
「ああ、おれ三点入れた。見てた?」
 見てた、とくすくす笑いをした。
「三点入れたって負けたら駄目じゃん。自慢にならない」
「ちっ」
「でもっ、クラスの子が『三津屋くんカッコイイー!』って言ってたよ。よかったねっ!」
「えっ、マジで」
 春花の笑顔に合わせて笑う。
 よくはないよ。他の誰に言われたって、たったひとりに言われなければちっとも嬉しくないんだ。
「ね、ミチヒロくん見かけなかったけど、どうしてたか知ってる?」
 笑顔が消えそうになった。結局聞きたいのはそこなんだろう。
「アイツなら、前半だけ出てあとは『あつい』とか言ってサボってたぞ」
 声が不自然に固かったかもしれないが、彼女は気付かなかったようだった。
「そっか、ミチヒロくんらしいや」
「なあ」
「ん?」
「高橋……、あんなだと浮いてるんじゃないか?」
 アイツの話題なんてこれきりにしてしまいたかったのに何故か自分から話を振ってしまった。
 ひとつ、高橋のことはまあ気になる。
 ひとつ、春花が憂い顔。
 高橋道尋、許し難し。
「うーん、そうだね浮いてるね」
 春花は苦笑した。
「浮いてる。ミチヒロくん自身は気にしてないみたいだけど、ちょっと心配」
「そうか」
 気にしてない、なんて、これが他の奴ならまず強がりを疑うが、高橋に限ってそれはないだろう。
 たぶん諦め。彼は真っ当な人間関係を諦め、しかも拒絶しているように見える。おれはほとんど諦めていないのに。おれと彼と何が違うっていうのか。
「隆は、ミチヒロくんと話したりするんでしょ?」
「え、まあ、少しは……」
 すると春花は満面に喜色を浮かべた。なんか、やな予感……。
「やっぱり! じゃあ仲良くしてあげるんだよ。知り合いいないって言ってたから、心細いんだと思うんだ。ね、いいでしょ」
「えー」
 えーとはなんだ、と春花はおれの背を鞄でどついた。
 そりゃ言うよ。『仲良く』なんて、小学生じゃないんだから。
 しかしそんな反論は腹に留め、おれは「わかったよ」とだけ口にした。口にしただけでは無くて、おれは本当に『仲良く』するんだろう。なんて律儀な。
 ……実際心配だしなあ。 (だっておれは彼のようだったかもしれない)
 それに彼はおれの唯一諦めていた事を実現させるかもしれないんだ。
 春花はるんるんと軽い足取りで歩く。今にもスキップしだしそう。静かな午後、今日はことさら川のせせらぎがよく聞こえる。辺りには誰もいない。誰も。
 手を繋げればいいのにな。
 おれはそろりと手を伸ばした。手と手が触れ合いそうになったそのとき、
「あぁっ!」
 彼女は土手に向かって駆け出した。
「えー……」
 じっと手を見る。あー、春花と最後に手を繋いだのは、まだ「春花ちゃん」とか呼んでいた頃の話で。
「何年前だよ」
 はあ、とひとつ溜息を吐いて春花の後を追って歩いた。
「おーい春花どうしたのー」
「ああ! おっそいよ隆、見て見て! すっごい」
 言われて春花の後ろに立った途端、おれは目を疑った。土手を上がって狭い川岸、そこは一面たんぽぽの綿帽子で真っ白だった。
 何か違うところに迷い込んでしまったかのように真っ白で真っ白で真っ白で。
「こんなにたんぽぽ咲いてたっけ?」
 春花はとても楽しそうだ。
 確かにすごいや、すごいが、おれの一大決心はこのたんぽぽさんらのために無駄に終わったのか……。
「どりゃああ!」
 間違ったシュートの要領で脚を無駄に振って、白い海原を掛け声つけて蹴り上げた。
 綿毛が勢いよく宙に舞う。
「何してるの!? きゃっ!」
 近付いてきた春花にも綿毛をお見舞してやった。
「タカシっ!」
「ちょっと種飛ばす手伝いしただけだ……っ、うわ口入った! 何すんだよっ」
「自業自得ッ!」
 春花が叫ぶ。おれは走る。ぎゃーぎゃーと叫んで走り回って、土手に腰を下ろした。春花はスカートを気にして座らなかった。
「疲れた……。ああ、もう夕焼けが」
 気付けば太陽の位置は随分下まで下がっていて。強くなった風に煽られて綿毛はさらにふわふわと踊る。春花はスカートの裾を押さえながら笑った。
 ――――彼女に惚れていると気付いたのも去年のちょうど今頃だった。
 友達同士で遊びに行った帰りの電車、偶然春花と一緒になって。西日の中、遠くを見て微笑う彼女が、一緒に泥んこになって遊んだ頃とはまるで違って見えて、はっとした。春花がすきだと初めて気付いた。
 見下ろす先には浅い川。水面は夕日を照り返して輝く。
「きれいだね。……ミチヒロくんにも見せてあげたい」
 おれはかすかに笑って言った。
「そうだな。また来年、たくさん咲いてたら連れて来てやろうか」
「うん!」
 おれ達の関係はその頃にはどうなっているのやら。
 諦めていた事がひとつある。誰かに洗いざらいぶちまけてしまうこと。おれの中に圧倒的な質量を持って存在する『加賀蘭』という名の女について。彼の人の記憶、感情、断片とは言えひとりで抱えるにはあまりにも重い。けれど春花にだって家族にだってそんなこと言える訳が無い。奇異の目で見られるのはこりごりなのだ。――だから、高橋に会えたとき、本当は嬉しかったんだ。
 十五年目にしてやっとやっと因果はめぐる、糸車。ろくでもないが。
「そろそろ帰ろうぜ、日が暮れる」
 立ち上がって、ふと思い立った。今告白してしまおうか。この調子じゃいい返事なんて貰えそうに無いのに、言ってみたくなった。
 おれはおまえが好きなんだと、繰り返す光景のせいにして、言ってしまいたくなった。
「なあ、しゅん……」
「あーっ!! お母さんに買い物頼まれてたんだ! 隆どうする一緒に来る?」
 先生質問です、タイミングってなんですか?
「ちょっと、隆ー?」
「……行く!」
 とりあえずは誘ってくれる事に満足しようか……。
 そう言い聞かせて歩き出した先に、ふわりとひとひら綿毛が飛び込んできた。なんとなく掴み取ろうとすると、指の間をすり抜けて、どこかへ飛んでいってしまった。
「隆ー、はやくー!」
 いつのまにか数メートル先にいた春花が手を振った。
 鞄を持ち直して歩き出す。ああ、
(おんなじだ)
 あの綿毛と同じ。手を伸ばしても、つかまえられない。
 ひら、と手のひらを夕日にかざしてみた。
「それでも……」

 それでも諦めないって決めたんだ。









放課後河川敷マーチ










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