「もーしィー」 呼ぶ声がした。 「楓どのー、いらっしゃいますかァー」 名を呼ばう声。楓は目を開いた。 「いるわ」 応えはくぐもった声になった。身を起こし、衝立の後ろから這い出た。ぷん、と雨の匂いがした。 「あっ、お休みになってらしたんですか? すいません……」 小さくなった小間使いの少年を横目で見て、楓は軽く身なりを整えた。 「いいわ、何か?」 少年は懐から文を取り出した。 「お文を取り次いで参りました。千一さまからです」 「そう。使いの方は? まだいらっしゃる?」 雨が、弱いが雨が降っている。もてなさねばなるまい。 しかし少年は目を逸らした。 「どうしたの。帰ってしまわれた?」 「いえ、それが……、ご本人が」 「なっ……!」 楓は瞳を丸くした。 「それでは、千一さまは! いるの!?」 少年はますます身を小さくした。 「それがっ、引き止めたんですけど……、申し訳有りません……っ」 楓は文をじっと見つめた。そうか、と声を漏らして立ち上がる。文を受け取ると少年の頭に手を置いた。 「ありがとう」 隣の曹司に足を踏み入れると、楓のあるじは広縁に寝そべっていた。 「このしもべありてこの主人あり……、ですか」 呟きが耳に入ったのか、蘭は楓のほうに寝返りを打った。 「あら楓、何か言った?」 いいえなんにも、と楓は主人の近くまで寄る。蘭は肩に小袖を一枚引っ掛けて起き上がった。 「雨だねえ」 楓は眉をひそめた。 「濡れるでしょう、開けっぱなしにして。障子閉めますよ」 「いや」 楓は硬直した。眉間にはげしく皺が寄っている。 そのようなさまもまるで気にせず、蘭は言い放った。 「いいでしょ。外が見たい」 「…………」 わかりました、と楓が腰を落とすと、蘭は部屋の中に引っ込んだ。 蘭の曹司からはあじさいの株がよく見えた。雨に打たれるさまは風情がある。 しかし。 「わたくしは雨は嫌いですよ。髪がうねって仕様もない。あなたには縁の無い事でしょうけど」 そう言って、楓は蘭の髪に櫛を通しだした。さらさらと櫛の歯から黒絹がこぼれてゆく。 「うらやましい?」 「あなたにはもったいない」 蘭は気分を害した様子も無く、くすくすと笑った。楓は唇をとがらせた。 「もったいない。こんな……」 「あたしたち、髪の毛だけ間違えて生まれてきちゃったみたいねえ」 蘭の指は刀や鍬を振るうので節くれ立っていたし、肌も少々焼けていた。大きな瞳は愛嬌があるが、美人ではない。 それに比べて楓はと言うと、おかしなことに、同じ事をしているはずなのに手にまめが出来ることもなかった。肌は白く、首すじなど血管が透けるよう。そしてなにより、美しかった。その華やかな容貌は牡丹――百花の王の如きとか。 「 しかし、彼女の美は不完全であった。髪だ。 髪の美しさが女の美。黒く、真っ直ぐな髪こそもてはやされる。 けれど楓の髪は赤みを帯びて、波打って、毛先ははねて。 楓はふん、と鼻を鳴らした。 「馬鹿をおっしゃい。わたくしがうらやんでいるとはよく言う。わたくしがその髪を持っていたら、今頃ここには居ないでしょうよ。困るのはあなたでしょうが」 「そーね」 蘭はまた笑う。 楓は一房を取り上げた。本当はうらやましい。この髪とその真っ直ぐな性根だけは本当に。 黙っていると蘭が問うた。 「機嫌が悪いのは雨のせい?」 「いえ、……違いますよ」 雨は嫌いだ。でも違う。だいたい機嫌が悪いわけではなく、 気分が悪い。 「文を預かって参りました」 目の前に折られた紙を差し出した。声が歪んだ。だから、それだけで誰からのものかわかったようだった。 蘭は黙って紙片を開いた。 楓は黙々とうつくしい髪をくしけずる。 (ああ……) 文面を覗き見ることは許されない。どんな内容であろうとも、それは二人の心中にのみしまわれるべきだ。 (思えば誤算だらけだった。わたくしも、吉正さまも) 千一が旅立つ前夜のことを思い出す。先の当主の葬儀の日。現当主――吉正は千一を呼び、告げた。 『於蘭のために去ってくれ』、と。 皆まで言わずとも千一は察したのだろう。幾日か前の内密の使者や、昨今の情勢。材料は余りあった。 まさか太田との、だとは思ってもみなかったけれど。 吉正は頭を下げて、一言すまないと詫びた。押し殺された声であった。 楓はそれを戸を隔てて聞いていた。 しばらくして千一が居なくなった後、楓はその室に踏み込んだ。吉正は驚いたようだったが、すぐに目元を柔らかくした。詰めよらんとする楓を片手で制して、言った。 一切咎めぬ、自分の思うことを為せ。 だから楓は。 (だからわたくしは千一さまをけしかけた。攫ってしまえと言うた。蘭さまにも手を取り合って逃げてと。吉正さまもそう望んでいるとわかったから。妹御の幸せをあの方は第一に願っていた) 太田の若君は良き御方。蘭の二つ歳上で、蘭は正室として迎えられる。不自由のない生活を送ることができる。だから吉正は縁組を決意したのだろう。蘭のためにも家のためにも願ってもない良縁だ。 それでも逃げ道を残した。どちらに転んでもよかった。蘭が幸せを掴めるのなら。 結局、千一と蘭は別れ別れになり、後には縁組だけが残った。 誤算だらけだった。 先代があんなにも突然亡くなるだなんて。 太田が急に領地を掠め取ろうとしてくるなんて。 救いをもたらしたのが、同じ太田の男だなんて。 (でも、わたくしたちの最大の誤算は、お二人が思っていたより大人びていらっしゃったこと) 手に手を取り合って逃げることができないぐらい、いろいろなものが見えてしまったのだろう。 千一は加賀への恩のために、蘭は一族や領民すべてのために、互いの手を離した。楓もだれも気付かぬうちに、子供のままでは無くなっていたのだ。 ああ、とても、とても口惜しい――――。 「口惜しいですね」 何が、と蘭は首を傾げた。 「蘭さまが嫁がれたら、この黒絹はわたくしのものではなくなってしまいます」 蘭が眉をひそめる様子が見えるようだった。 「……そもそもあたしの髪はあんたのもんじゃないし」 やっぱりうらやましいんじゃないの、と蘭はぶつぶつ言った。 さらさらと、さらさらと櫛の歯から黒絹がこぼれてゆく。蘭はまだ文を見ていた。 「まったく、我が身が恨めしい」 「は?」 庭を眺める蘭の表情は、きっと渋面になっている。そう思うとなんだかおかしかった。 「蘭さまの侍女でさえなければ、若君を横からかっさらっておりますのに」 「あんたねえ……」 呆れたように首を反らして見上げてくる己が主人をうしろから抱きしめた。 「ちょっと、……楓?」 頭をくしゃくしゃと掻き混ぜた。いとしいいとしい大事な 「幸せになってくださいませ……。あなたを愛する大勢のためにも、必ずや。若君は良き方です。わたくしが言うのだから間違いありません。だから……」 しあわせになって。 そう思うのなら千一からの文を握り潰さないのはどうしてか。 蘭の返事をせっせと手配するのはどうしてか。 ――――そんなの、自問するまでもない。 雨が大地を打つ音のわずかばかりも弱まらず。気が滅入る。 くすり、と微笑う気配がした。 「あなたも千一も同じことを言う」 「蘭さま――」 楓の腕を外させて蘭は言った。 「おかしな楓。何を心配しているのやら。好き好んで不幸になる奴がどこにいる」 そうして文を楓に押し付けると、立ち上がって、開け放たれた縁に足を向けた。 「ねぇ楓、ところであなた、いったいなんて書いて送ったのよ」 濡れた広縁に雨粒が弾け飛んだ。蘭の足元があっという間に濡れてゆく。 「ねぇ、聞いてるの」 声は聞こえる、顔は見えない。 誰も彼もが泣かないから、空が代わりに泣いている。 |